必死になってよじ登ったのだから、塀の上からの景色を楽しんでもいいだろう。私が見降ろすのは、田中くんのお家。二階建ての和風の屋敷を、立派なお庭がぐるりと囲む。田中くんはお金持ちだ。

「よし」

私は塀の向こう側に降り立った。ぐるりぐるりとねじ切れんばかりに曲がりくねった木々は前衛芸術的というか、さすが一流の庭師に整えられた庭、というべきか。

でも、まあ、上から見たし、どうでもいい。

正面玄関は鍵が閉まっていたので、お家の裏側から入ることにした。七十年後くらいにこんな場所でぽっくりと逝きたいと思う、裏庭に面した素敵な縁側だ。

私は息をのんで、 木枠のガラス戸をゆっくりと開ける。気を抜くと音が鳴りそうだ。開いた戸の隙間に首を突っ込んで、左右の安全確認をし、人がいないのを確認すると、私は靴を脱いだ。

「お邪魔します」

 小声で言うと、田中くんのお家に、ついに一歩、足をふみ入れてしまった。田中くんが素足で歩いたかもしれない木の床はひんやりとして気持ちがいい。靴をビニールに包み、リュックサックにしまう。

辺りを見回すと階段が目に入った。

田中くんのお部屋は二階にあるから、階段を上ればいい。

私はずんずんと階段を上り、二階へ。

階段を上って正面の部屋のドアを勢いよく開けた。目に入ってきたのは、妙に赤い部屋と、その中央に立つ、人の後ろ姿。

人がいた。

どうして? 人の気配なんて、全くなかったのに……。

私は慌ててドアを閉めようとしたけれど、すんでのところで思いとどまる。

そこにいたのは、田中くんだった。

「田中くん!」

 彼が振り返る。ふり返って、私を見る。

「ああ、さつきさん。来たんだね、まあ座りなよ」

「うん!」

 さつきさん……さつきさんって誰だろう? たぶん、私のことだ。じゃあ、まあ、私はさつきさんでいいや。

私は彼の示したベッド(彼のベッド!)の方へ目を向け――首を傾げる。

 彼のベッドの上に、女の子の体が寝かせてあった。セーラーを着た女の子の体。ただ、その体には首がなく、首のあるはずの部分には、シーツに赤黒い染みができているだけ。

 私は田中くんを見た。

「田中くん、この置物、ちょっと……」

 趣味悪いよ? と言いかけて、私は息をのんだ。

 彼は、女の人の頭を抱えていた。首から、ちょろちょろと赤い液体が漏れ出ている。部屋の赤は、壁紙ではないのかもしれない。

「田中くん、それ、その置物……、置物?」

「ああ、この子……」

 田中くんが視線を落とし、持っている首を見つめて言った。

「この子は、僕が寂しい時に、僕を慰めてくれる大切な友達」

「その子が……?」

「うん、この子が」

 田中くんが女の子の髪を優しく撫でる。心なしか、女の子の細められた瞳が気持ちよさげだった。

「田中くん」

「なに? さつきさん」

「私がいつも一緒にいてあげたら、もうその子は必要なくなるんじゃない?」

「さつきさんが?」

「うん」

 田中くんは顎に手をやって、考えるそぶりを見せる。田中くんが、私との未来について考えてくれている。それが嬉しくて、つい、ここぞとばかりに畳みかけてしまった。

「田中くん、ずっと黙ってたけど、私、田中君のことが好きなの。いえ、これまでで話したこともないけど、でも、本当に好きなの。はじめは一目惚れだった、それからずっと、田中君のことを見ててね、冷たい瞳に、温かさを感じる動作の一つ一つ、その裏にある不安定さ、全部、愛してる。田中くん、お願い、私と結婚して」

「結婚?」

 田中くんが素っ頓狂な声を出す。これまで真摯に私に向いていた瞳が、あらぬ方へ消えてしまった。結婚は少し早かったかもしれない。

「結婚は、わからない。でも」

 田中くんは言いながら、女の子の首を放り投げ、その両手で私の手を握った。ちょっとだけ、ベチョットした。

「僕もずっと、さつきさんが好きだった」

「田中くん」

「はい」

「ありがとう!」

 私は涙を流して、田中くんに抱き着いた。田中くんもそれに応じてくれる。彼の胸は少し粘っこくて赤かったけど、それでも暖かくて、細身なのに、たくましさを感じた。

「あ、ちょっといいかな」

 私が彼の胸で幸せを噛みしめていると、彼が突然さめた調子で言った。

「うん、いいよ」

「ごめんね」

 一時、田中くんと離れる。田中くんは私に背を向けて、奥の棚の方へ。

 棚にはいくつかの首の置物が飾られていた。みんな、若い女の子だった。

 ふと、棚に立てかけてあるものが目に入る。

 真赤な血のついた、大きな斧。

 田中くんが、斧を両手で持ち上げた。

 田中くんが振り返る。

そして、言った。

「さつきさん、ちょっとそこ、動かないでね」

 田中くんが斧を振りかぶった。私にはわからない。彼は、私を好きだといった。だから、私と同じわけで、でも私はそんなこと、されたくない。私はそんなことをされたくない。彼は私を好きだといった。なら、それがわかるはずなのに……、私にはわからない。

私は彼に言われたことを破って、逃げ出した。

 部屋を出ると階段を駆け下りる。ふり返って、今下りた階段を仰ぐと、開いたままの扉から、田中くんがゆっくり、歩いて出てくるところだった。

「待って、話し合おうよ!」

 私が声を張ると、田中くんは私を見下ろして微笑み、うん、いいよ、と言ったのだった。

 私は案内されたリビングで、両腕両足を固定する器具のついた大きな鉄の椅子に、田中くんと向かい合って座っていた。彼も同じ鉄の椅子に座っていたけれど、彼のは少し血が付いていた。彼は構わず、深く腰をおろしていた。

 勝負どころである。大丈夫、説得できる。なんせ私は、こんなに田中君が好きなのだから。アピールするポイントはそこだ。田中くんと私は両思い。でも、田中くんは私が裏切るのではないかと不安なのだ。

私がどれだけ田中くんを愛しているかということ、私が死んじゃうとできない、あんなことやこんなこと、私が生きていてこそおくれる夢のような日々、それらを力説すれば、何の問題もない。私は拳を握りしめた。大丈夫。思いは伝わる。

自分に言い聞かせて、田中君の目をみつめ、話しだすことにした。

「田中くん、私は田中くんが大好きなの」

 田中くんは照れたように笑って、ありがとう、と返してくれた。

「それで、田中くんもわたしのこと、好きって言ったよね」

「うん、僕はさつきさんが好きだ」

「じゃあ解決じゃない? 両思いなんだよ? これからたくさん、楽しいことをしようよ。本当に、本当に現実に、楽しいことが出来るんだよ。私と田中くんは両思いなんだから」

「うん、そうだね」

 田中くんは笑って言った。どうしてだろう、飄々としてるように見える。

「どうして私にそんなことするの? 私だって、好きな人が、もう一生私に振り向いてくれない、ってなったら、そりゃあ酷いことしちゃうかもしれない。意思はともかく、体だけでも……って考えちゃうかもしれないよ? でも、違うじゃん。私と田中くんは両思いなんだから、愛し合える。相手が生きていなきゃできないたくさんの素晴らしいことができる。田中くんは、どっちがいいの? 田中くんが好きなのは私という人間? それとも私の形をした動かないモノ?」

「いやいや、生きていようが死んでいようが、さつきさんはさつきさんだよ」

「死んだら私、話せないよ?」

「何いってるの?」

 田中くんは、私が馬鹿馬鹿しいことを言っているかのように鼻で笑った。

「話せるよ。死んでいる状態でも」

 田中くんがあまりに自信満々に言うので、私は少し考えてみたが、やはり死んで話せるわけがなかった。死んで話せるのなら、私の家にある有村くんが私に話しかけてくれるはずだから。私が死ぬほど寂しかった時、話しかけて、慰めてくれたはずだから……。

「私は死にたくない。田中くんが私を好きなら、私の思いを尊重してくれてもいいんじゃない?」

 田中くんは首をふった。

「いや、違う。五月さんは死にたいはずなんだ。ただ、生きている状態じゃその欲求には気付けないというだけで」

 もう、どうしていいかわからない……。

私はじっと、田中くんの瞳を見つめた。田中くんも、それに答えるように私の目を見つめる。そうして、私たちは見つめ合った。

田中くんの黒く冷たい瞳は、私の目からいったい何を読み取っているのだろう。わたしのことを、考えてくれているのだろうか。

「わかった、わかったよ」

 田中くんが手を鳴らし、頭をさげて言った。

「ごめん、ぼくは五月さんのこと、理解できないみたい」

「どういうこと?」

「僕は五月さんを理解できない。理解できないことを理解したなんて敗北宣言、みっともないとも思うけどね」

 そう言って、田中くんが立ちあがる。私も立ちあがった。

 少し、そのまま見つめ合ったけど、田中くんが立てかけてある斧を手に取ったのをきっかけに、私はリビングを飛び出した。

 廊下を走っていると、裏庭が見えた。さっき自分がこの家に入りこんだ場所、あの場所から逃げられる……。一瞬そんな考えが浮かんで、私は首をふる。違う、嫌だ。私は田中くんを諦めたくない。きっと一番つらいのは田中くんだ。これまで両親から愛を与えてもらえず、友達もいない。本当の幸せを知らないのだ。

 私だけが、田中くんを救える。

 それに、思いはぜったいに伝わる。

そう思いたかった。今の私には田中くんしかいない。田中くんだけが私の幸せ。

 曲がり角まで来て、ふり返ると、向うの廊下の端に田中くんが立っていた。私は呼びかける。

「田中くん、考え直して。私、田中くんを愛してるんだよ」

 田中くんはゆっくりと廊下を歩いてくる。あくまで私の話を聞いてくれる。田中くんが優しくなければ、もう、きっと私はこの家を脱出していると思う。

「田中くん、じゃあ、こうしようよ。田中くんが誰かを殺したくなったときは、殺される役は誰か他の人にやってもらう。私は生きたまま、田中くんと暮らすの。ね?」

「何でそんなこと言うんだよ……」

田中くんが悲しそうな表情でうつむいた。歩は止めない。距離が縮まる。

「生きているとそんなことを言うから、だから、さっさと死んだほうがいいんだ!」

私は、死んだほうがいい……。その言葉はショックだけれど、田中くんが目の前で斧を振り下ろそうとしていたから、思考を中断して、角を曲がって駆けだした。そのまま廊下を駆け抜け、角をもう一つ曲がり、二つ目の扉に駆け込んだ。息を殺して、扉にもたれかかる。廊下で足音がして、田中くんが通り過ぎたのがわかった。ほっと息をつく。

どうして田中くんは私の気持ちを理解してくれないんだろう。人をばらばらにして殺すなんて、イカレてる。それでもやっぱり田中くんは優しくて、私は田中君が好きだ。田中くんを幸せにするのは私の幸せでもあるけど、私が感じることのできる幸せは、私の生を越えることはできないから、いくら田中くんにでも、殺されたくない。

どうして? どうしてどうしてどうして……。私は田中くんを愛してる。田中くんも、私を愛してる。ハッピーエンドじゃない……。どうして? この障害はなんなの、田中くん……神様。 

ふと、目の前にある鏡が目に入った。その鏡が変なのか、私が変なのか。私の顔の隣に、有村君の顔が浮いていた。    

なんだろう、家から抜け出してきたのだろうか。ふわふわと浮いて、私のあとを追いかけて? 有村君は異様に長い舌を出すと、私の鼻をべろんべろんと舐め始めた。

鏡の中とはいえ、さすがに鬱陶しくて有村君を腕で払うと、その顔は煙みたいに消えてしまった。私は深呼吸した。目の前にいる女の子の姿は醜い。これが、恋する乙女の姿だろうか? 恋する乙女というのは、こんなにねじ曲がった根暗なものではなくて、一直線で、どこまでも輝いているもののはずだった。

いけない。理解できないなんていって、私は自分の幸せを田中くんに押しつけていただけだ。もっと冷静にならないと。田中くんに歩み寄ろうとしなくてはいけない。

洗面の鏡からようやく目をそらすと、隣接されたバスルームが目に入る。

バスルームのモザイクのガラスに一滴、赤い液体がついていた。

足がバスルームに引き寄せられるように、一歩、また一歩と歩みを進めていく。そっと扉を開けると、中に充満していた異臭が広がった。

浴槽の中には水が溜まっている。血であることは一目でわかるが、わからないうちは……と、赤い浴槽にぷかぷかと浮かぶ、しなやかな腕……。赤い水は血である……いや、そんなことはわかっている。問題は、どうして彼がそんなことをするのか、ということ。

考えても、理解できなかった。どうすれば田中くんを理解できる?

どうすれば田中くんを理解できる?

それだけが私の頭の中でひしめいた。

気付いたときには、私は服を全て脱ぎ捨てて、浴槽の中に浸かっていた。

底の方には内臓か何かが敷き詰められているのか、お尻にぶよぶよとしたものが当たって気持ちが悪い。

感染症にならなきゃいいけど……。

私は、ちょうど底の方に転がっていた女の人の頭を抱えて、まじまじと見つめた。

「あなた、幸せ?」

女の人はそれに答えなかった。瞳も、一ミリと揺れもしない。私は女の人の頭を沈め、ため息をついた。

理解できないことを理解する……、田中君の言っていたことが、とても身近な言葉になった。

そもそも、ここに来る前の私は、田中くんの全てを知っている気になっていた。もう、田中くんは私のものだと思い込んでいた。今ならわかる。あの時の私は馬鹿だった。

理解できない。田中くんを理解できない。

理解できないのはこの女の人も一緒だ。田中くんに殺されたこの女の人……。私が尻に敷いている柔らかい物、浮いている手足、沈んでいる胴、底を転がる首、私が浸かっている血……、この女の人。

 女の人の顔にはお淑やかな笑みが浮かんでいた。子供の我儘を受け入れるような、優しい母親のような顔。

殺されるときに、こんな顔を浮かべられる?

 


無理。

 私は立ち上がって浴槽を出ると、元々着ていた服で体を拭い、下着だけを身に着けた。リュックサックはもういらない。

 誰もいない廊下を歩いて、ガラス戸を開けた。ためらいもなく庭に出る。

 塀はすぐそこにあって、あれを越えれば終わり。

 そう考えたとき、足が止まった。

 これで、終わりなの……?

 何年にも渡った彼への愛は、私の何年間は、こんなものなの……? 

 まず、胸のうちに湧きあがってきたのは虚しさ。

 この家を出るということは、私のこれまで……彼が全てだったこれまでが終わるということ、失くなるということだった。

 脳裏に女の人の顔が浮かぶ。田中くんに髪を撫でられていた女の人、浴槽に転がっていた女の人、あの二人は幸せそうだった。

 私はその幸せを……。

 考えるうち、意識がどこか、空の高いところに行きそうな、そこをさらに突き抜けて、遠く、遠くに行けそうな、そんな気になってくる。

 どんどんどん……。

足音が頭上から聞こえた。田中くんが二階を歩く音だ。

やっぱり、死にたくない。

 結局、それが全てなのか。私は、田中くんのことや幸せのことを全て、考えるのをやめて、駆けだした。思考停止であることはわかる。とても悲しいことだとも思う。でも、生きなきゃいけいない。

生きたいという本能が思考を塗りつぶした……そんな言い訳をしてもいいだろうか。でも、もう辛かった。

塀に手をかけて登った。塀の向こう側、田中くんのお家の外に降り立った。少し塀を背にして立っていたけれど、振り返らずに、私は駆けだした。


街行く人たちの目で、私は自分が下着姿であるのを思い出した。

「何があったの」「大丈夫?」

 声をかけてくれる人もいた。でも、私はその声を無視した。応えようとしたとき、田中くんや、首だけの女の人が脳裏に浮かぶのだ。

 田中くんは優しかったし、女の人も優しそうだった。でもその実、私には理解できない禍々しい人間だったから……。今、自分の上着を脱いで差しだしてくれている人がいったい何を考えているのか、彼がどんな人なのか、私には理解できない。

理解できないに決まってる。

そう思うと、怖くて、関わりたくなかった。私は禍々しい人だかりを割って、ひたすら無言で家を目指した。

 

あれから、一歩も家を出ていない。怖いからだ、人が。

 でも、怖くない人もいる。

 私は有村くんの髪を優しく撫でてあげた。

「有村くん、気持ちいい?」

 すると、有村くんは目を細めて、言うのだ。

うん、気持ちがいいよ、ありがとう。

(了)