清之助はしっかりと研いだ一合の米と分量の水を入れた炊飯ジャーを炊飯器にセットし、炊飯ボタンを押した。水が少々多かったかもしれない。美智は硬めと柔らかめ、どちらが好きだろう。好きな食べ物だけではなく、好みのご飯の硬さについても訊いておくべきだったかもしれない。

 冷蔵庫からエスカベーシュの入ったボウルを取り出す。ラップを外し、マリネ液に浸かったサーモンを一切れずつ菜箸でひっくり返していく。全てのサーモンの上下の交換が完了した直後、ジーンズのポケットの中でスマートフォンがバイブした。美智からの電話だ。すぐさま通話ボタンを押した。

「清之助くぅん、夕ご飯の準備、出来まちたかぁ?」

 美智はげらげらと笑っている。

「うん、ばっちりだよ。エスカベーシュは味がよく染みているし、ご飯も一時間後には炊ける」

「えっ、ご飯? エスカベーシュにご飯? 普通はパンでしょ。エスカベーシュにご飯って、マジうけるんですけど! ご飯だけに噴飯ものなんですけど!」

 美智は大笑いしている。箸が転んでもおかしい年頃、という慣用句を清之助は思い浮かべた。

「あ、そうそう。清之助くんに買っておいてほしいものが一つあるんだけど」

 唐突に笑い声を収めたかと思うと、美智は話頭を転じた。

「買っておいてほしいもの? 何?」

「猫用の缶詰。安物でいいから買っておいて。よろしくね」

 通話が切られた。

 スマートフォンをジーンズのポケットに戻し、ボウルに新しくラップをかけて冷蔵庫に仕舞い、戸締まりをして自宅を発った。


 近所のコンビニエンスストアに足を運んだが、販売されていたのはドライタイプのキャットフードのみで、缶詰は置いていなかった。

 何も買わずに店を出ることには抵抗があった。最も遠回りになるルートを通って出口に向かいながら、購入すべき商品について思案する。これから別の店に行くので、飲食品を購入し、店先で消費してしまうのが望ましい。しかしながら、清之助は現在、腹が減っているわけでなければ、喉が渇いているわけでもない。結局、後ろめたさを感じながら店を後にし、最寄りのバス停に向かった。

 停留所で五分ほど待つと、バスが道を走ってくるのが見えた。乗車する意思があることを示すため、清之助は高々と挙手した。標識の近くに佇んでさえいれば、余程のことがない限り停車してくれると頭では分かってはいたが、そうせずにはいられなかった。バスが停留所に停まり、乗車口のドアが開く。清之助が乗り込み、ドアが閉まり、バスは走り出した。

 車内は空いていた。最後尾の座席の中央に、私立高校の制服を着た少女が二人、並んで座っている。清之助は彼女たちの一つ前の座席に腰を下ろした。

 女子高生二人組は大声で話をしている。殺人罪で服役した経験を持つ女性が経営するレストランが駅前にオープンしたが、その店の従業員の接客態度が甚だ悪い。そんな内容だ。

 清之助はジーンズのポケット、スマートフォンを収めているのとは反対側のポケットから財布を取り出し、小銭を数え始めた。運賃は釣り銭が出ないように支払わなければならない。降車直前になって慌てることがないよう、早い段階から用意しておこうと思ったのだ。

 消費税が八パーセントに値上げされた影響で、バスの運賃は二百十円という半端な額だ。十円玉一枚と百円玉一枚はすぐに見つかったが、もう一枚の百円玉が見当たらない。百円玉だと思って取り出してみると、百円玉と一見そっくりな五十円玉だった、ということが三度も繰り返された。

 清之助は焦った。千円札ならば持っている。バスには両替機が設置されているので、千円札一枚を百円玉十枚に替えれば済む話なのだが、彼はバスに設置されている両替機を使用した経験がなく、使いこなせるか不安だった。百円玉一枚の代わりに五十円玉二枚を支払いに用いるのも、百円玉と十円玉以外の硬貨を使用しても構わないかどうかが不明なので、極力避けたい。彼としては、後ろに座っている女子高生二人組に五十円玉二枚との交換を願い出てでも、両替機の世話にならずに二枚目の百円玉を用意したかった。

 一分あまり小銭と格闘して、漸く二枚目の百円玉が見つかった。胸を撫で下ろした清之助の耳に、女子高生二人組の話し声が流れ込んできた。殺人罪で服役した経験を持つ女性が経営する駅前のレストランのオムライスは、卵がふわふわだ。チキンライスに使われているケチャップはトマトの味が濃厚で、なおかつ酸味がまろやか。みじん切りの玉葱は食感がしゃきしゃきとしているし、鶏肉は大きく切ってあるので食べ応えがある。トッピングにグリンピースが使用されていないのもポイントが高い。値段は少々張るが、食べるだけの価値はある。そんな話をしている。先程まで従業員の接客態度が悪いと文句を言っていたのに、掌を返したようにべた褒めしている。

 女子高生というのは、気紛れな生き物だな。

 そう思った後で、いや違う、と頭を振る。

 気紛れなのは女子高生だけではない。女性全員だ。

 十分あまりが経過し、次が降りる停留所となったので、降車ブザーを押した。次、停まります。録音された女性の声が告げ、バスは停留所に停車する。二枚の百円玉と一枚の十円玉を握り締めて座席から立ち、通路を直進、運賃を支払おうとすると、

「お客さん。お金、足りませんよ」

 運転手がぶっきらぼうに言った。三十見当の、浅黒い肌の女性だ。

 驚いて顔を見返すと、運転手は白い歯をこぼした。

「冗談ですよ、冗談。二百十円で足りています」

 会計をしようとする客に対して、店主が法外な支払い金額を告げて面食らわせる、という一種のジョークがあるが、その亜種だろうか。清之助は愛想笑いで応じ、改めて百円玉二枚と十円玉一枚を運賃箱に入れようとした。すると運転手の右手が箱の投入口を覆った。

「偏っているのよね。弱いところを補強する。基本的にはそれでいいんだけど、一点を集中的に強化したとしても、他の部分を疎かにしては元も子もないわ。要はバランスよ、バランス」

 先程のジョークとは全く関係のない話を運転手が急に始めたので、清之助は困惑を禁じ得なかった。どうやら野球の話らしい。運転手の贔屓球団は長年貧打に苦しみ、それが成績低迷の主因となっていたが、ここ数年、打者の補強に力を注いだ結果、リーグ屈指の強力打線を誇るまでになった。しかし投手力の強化を怠ったせいで、今度は投手力の脆弱さに悩まされるようになり、その弱点が足を引っ張って思うように勝ち星を伸ばせず、成績は依然として振るわない。そんな話だ。

 一介の利用客に過ぎない清之助に、運転手の無駄話に付き合う義務はない。ついでに言えば、彼は野球に全く興味がない。彼としては速やかにバスを降りたかったが、運賃箱は運転手の右手によって塞がれている。運賃の支払いを完了していない以上、バスから下車するわけにはいかない。為す術なく立ち尽くしていると、突然、車両の後方から大きな音が聞こえてきた。

「おー・そー・い! おー・そー・い!」

 女子高生二人組が床を踏み鳴らしているのだ。座席が障壁となり、清之助がいる位置からは彼女たちの足元は窺えなかったが、音が微妙にずれているので、二人揃って踏み鳴らしているのだと分かった。

「中長期的なものの見方が出来ないのね、彼らは。目に留まった傷ばかり補修して、他の部分はほったらかし。それでは、いくら頑張っても強くなれないわ」

 運転手はマイペースに野球の話を続けている。

「おー・そー・い! おー・そー・い!」

 女子高生二人は床を踏み鳴らすことを止めない。

 運賃を運賃箱に入れることに拘らずに、運転手の手に押しつけてバスを降りてしまおう。そう決意し、行動に移ろうとした矢先、

「いっそのこと、堕ちるところまで堕ちればいいのよ。そうしたら目が覚めるでしょう、どんな馬鹿でも」

 運賃箱の投入口を塞いでいた右手が外れた。運転手は浅黒い顔に晴れやかな表情を浮かべている。清之助は手中の三枚の硬貨を運賃箱に入れ、小首を傾げ、バスを降りた。


 停留所から数分歩き、ホームセンターに到着した。自動ドアを潜り、ペット用品コーナーに直行する。

 ペット用品コーナーの手前には、ペットコーナーが設けられている。水槽の中には魚と両生類と爬虫類と昆虫が、鳥籠の中には鳥が、硝子ケースの中には犬猫が、それぞれ収容されている。一帯は吠え声や鳴き声で些か騒々しい。

 清之助はジーンズからスマートフォンを取り出し、時間を確認した。移動時間を考慮しても、美智の訪問予定時刻までには充分に余裕があった。彼は猫用缶詰を購入した経験はなかったが、係員呼び出しベルを押せば係員が売り場まで駆けつけるシステムが用意されているので、目的の陳列棚には苦もなく辿り着けるだろうと判断し、缶詰を買う前に動物たちを見て回ることにした。

 硝子ケースの中の動物の大半は眠りに就いていた。彼らの寝顔を三十秒ほど眺めてから次のケースに移動する、ということを繰り返す。

 十匹を見終ったところで、進行方向に客が佇んでいることに気がついた。緑の黒髪を腰まで伸ばした、二十歳前後の女性だ。硝子ケースにへばりつき、内側を覗き込んでいる。その横顔は真剣そのものだ。

 女性の背後を通り過ぎる際、彼女が見ているケースの中を覗き見た。そこに収容されていたのは、乳離れして間もないと思われるアメリカンショートヘア。空間の隅、寝床でもなんでもない場所で丸くなって眠っている。

 清之助は思わず足を止めた。アメリカンショートヘアの様子に不審な点を認めたからではない。アメリカンショートヘアを見ていた女性が、突然、両手で硝子を叩きながら奇声を発し始めたのだ。

「アメショたん! アメショたん!」

 女性の挙動は激しかった。硝子は今にも割れんばかりに震え、耳を塞ぎたくなるような音と声が周囲の空気を揺るがす。双眸は極限まで見開かれ、血走っている。口角からは一筋の涎が滴っている。

「アメショたん! アメショたん!」

 不可解なのは、これほどの大声が間近で発生しているにもかかわらず、アメリカンショートヘアが眠り続けていることだ。寝顔は安らかそのもので、起き出す気配は微塵もない。しかしながら、左隣のチンチラ猫はパニックを起こして檻の中を逃げ惑っているし、右隣のペルシャ猫は全身を硬直させて女性を凝視している。強力な防音機能を持つ硝子が使用されている、というわけではないはずだ。

「アメショたん! アメショたん!」

 清之助は女性に背を向け、小首を傾げ、ペットコーナーから立ち去った。

 係員呼び出しベルに頼るまでもなく、猫用缶詰の陳列棚は見つかった。かなり種類が豊富で、両手足の指を総動員しても数え切れない。美智は銘柄を指定しなかった。サーモンのエスカベーシュを夕食に作ったということで、サケが使用されている缶詰を探したが、置かれていない。迷った末、高級魚というイメージがあるマグロの缶詰を棚から選び取り、会計を済ませて店を出た。


 帰りのバスに乗り込むと、行きのバスで乗り合わせた女子高生二人組が乗っていた。相変わらず大声で話をしている。

 今度は二人から離れた座席に座った。話し声が大きいので、離れた場所からでも内容が聞き取れた。子供の頃、自宅の庭に頻繁に姿を見せる野良猫がいた。野良猫だが人馴れしていたため、愛着が湧き、市販のドライタイプのキャットフードを購入して与えていた。その猫は胃腸が弱いのか、よく庭に嘔吐物を残していったが、それは決まって、半日も経つと跡形もなく消え失せていた。当時は母親が片付けていたのだろうと考えていたが、今になって思えば、野鳥が食べていたに違いない。キャットフードは栄養価が高い上、一度咀嚼されて柔らかくなっているから、野鳥にとってはご馳走だったはずだ。そんな話だった。

 運賃の硬貨は、降車する三つ前の停留所を通過するまでに用意を済ませた。行きのバスとは違う運転手だったため、すんなりと下車することが出来た。


 停留所に降り立った直後、焦げ臭さを感じた。

 その臭いは、自宅に近づけば近づくほど強くなっていく。

 どこかのそそっかしい主婦が、焼き魚でも焦がしたのだろう。夕食の支度に取りかかる時間帯ということもあり、臭いを嗅いだ当初はそう考えた。しかし臭いを嗅げば嗅ぐほど、焼け焦げたのは食べ物ではないのではないか、という思いが膨らんでいった。

 ここを曲がれば、後は百メートルあまり歩けば自宅に着く、という曲がり角に差しかかった時、スマートフォンがバイブした。美智からだ。足を止めて電話に出る。

「清之助くぅん、遅いでちゅねぇ。猫缶一つを買うのに何時間かかってるの? 四本足で移動してたの?」

 美智はげらげらと笑っている。

「家を出てからまだ一時間くらいしか経っていないよ。ていうか、美智はもう僕の家に来てるの?」

「うん、来てる。清之助くんが遅いから勝手に中に入ったんだけど、そしたらなんか、冷蔵庫にエスカベーシュのボウルが置いてあって、炊飯器のご飯が炊き上がったばかりだったから、ああ、これが今日のあたしたちの夕ご飯なんだなって思って、試食してみたの。エスカベーシュも、ご飯も。そしたらね」

 美智は唐突に笑うのを止める。数秒の沈黙の後、笑い声が爆発した。

「すっごく不味い! 笑っちゃうくらい不味かったの、清之助くんが作った料理! エスカベーシュは味が染みすぎだし、ご飯は柔らかすぎだし。猫の餌かと思ったもん。酷すぎる。あまりにも酷すぎるよ、あれは」

「いや、そんなことは……」

「あまりにも酷すぎて、むかついたから、清之助くん、あたし、燃やしちゃった」

 焦げ臭い臭いが急に強くなった。

 美智、何を燃やしたんだ?

 そう叫びたかったが、声を張り上げる勇気が湧かない。それどころか、声を発する勇気さえも。

「そういうわけで、何もかも灰燼に帰しちゃったから、晩御飯は外で食べよう。殺人罪で服役した経験がある女の人がやっているっていう、駅前にある、オムライスが美味しいレストランで。——ただし」

 美智は笑い声を消し、ささやいた。

「清之助くん、あなたは店の外で四つん這いになって、あなたが買った猫缶を食べてね」

 通話が切られた。

 ああ、嫌だ、帰りたくない……。

 呆然とその場に立ち尽くしたが、立ち尽くしているうちに、こちらから向かわずとも美智が迎えに来る気がしてきた。溜息をつき、覚悟を決め、曲がり角を曲がった。