さようならは二度いわない


『ユウジと別れて幸せになる』

 恋人からの願いが書かれた小さな紙切れを、手のひらで握りつぶした。

 空には中秋の名月がLEDのように寒々と輝いていて、たった今タイムカプセルを掘り起こしたばかりの土の塊を冷たく照らす。



 ぼくたちはデートの後ほろ酔い気分で土手の道を歩いた。やがてユナのアパートが見えてきた。

「わ……あ。キレイなお月さん。そっか今夜は中秋の名月ね。この月の下で願い事を書いたタイムカプセルをすると叶うって覚えてる?」

「ああ、覚えているよ。高校の時だろ?そういう都市伝説が流行っていたよな。ぼくは信じないけど」

 少し意地悪く言い放った。そんなことで願い事が叶うなら、月まで逆立ちで歩いたっていい。

「ユウジは現実主義だからね。――じゃあ、だまされたと思って」

 企んだ笑みを浮かべて、バックの中から缶ペンケースを取り出した。

「気に入っていたペンケースだけど他にないから仕方ないわね」

独り言のようにつぶやきながら、中身のボールペンやシャープペンシルを取り出して空にした。そしてメモ帳をぼくに手渡す。

「なんでもいいの。願い事を書いて。よく効くようにひとつだけよ」

「――これに?」

 サンリオショップでおなじみのキャラクターのついたメモ帳は恥ずかしい。

「別に願い事なんてないよ」

「メモ帳に書いたらこのペンケースに入れて土に埋めるの。土に埋めることで効果が増すのよ。来年の今日、掘り起こすの」

 ぼくの言葉を無視してユナは続ける。今夜のユナは少し強引だ。

ユナはスラスラと書くと二つ折りにして缶ペンケースに寝かせた。

 夜風がそよそよとユナの長い髪をゆらす。モデル顔負けのスレンダーな体の線が寒そうに震える。風邪をひかせてはいけない。ぼくは願い事を走らせた。



 ユナとは長い。

 高校時代のぼくは理由もなく苛々していた。

尖ったナイフという言葉があるけれどまさにそれ。まずぶつかって刺し合って判断した。友情でさえそこから生まれた。

気がつけばそういう仲間ができあがっていて、ぼくたちは学校で好き放題に過ごしていた。

ある日、いつものようにも掃除当番をさぼって帰りかけた時だった。みな文句をいいたそうだったけれど、視線さえ合わそうとしない。そんな中、ユナだけが一人、箒をなぎなたのように構えて「掃除をするのよ」ぼくたちの前に立ちはだかった。気の強い瞳がまっすぐにぼくを射た。

闘う美少女戦士のごとく凛とした姿にぼくは、あっさりと陥落した。

生意気な女だ。体育館の裏山に呼び出して犯っちまえ、という仲間の提案に背筋が凍った。オスの精で汚したくないとおもった。必死で反対をするぼくに、ユウキでも恋をするのかと笑われた。それで初めてこの感情が恋だと気づいた。

 あれから十年。ぼくたちはとても上手くいっていた。初恋は実らないというけれど、甘いハッピーエンドだってあるのだ。



 家まで送り届けた帰り道、さっきタイムカプセルを埋めた場所が月光のスポットライトを浴びている。青みを帯びた冷たい光がじんわりと土の中へ吸い込まれていくのを見ていると、願いが叶うという都市伝説もまんざらではない気がしてくる。

 ぼくの心に闇が射した。

 見たい。ユナが紙に何を書いて願ったのか。

 大好きなユナ。ユナのことなら何でも知りたい。でもタイムカプセルをこっそり見るなんて軽蔑されるにちがいない。

 ユナの部屋を振り返る。電気が煌々としている。明日は仕事が早出だから今夜は早く眠るといっていたから、化粧でも落としているころだ。

 心の闇が声をあげた。声はどんどん大きくなって考える力を奪う。ぼくは命令に誘惑されていく。

(大丈夫だ。ユナはもう眠るころだし、きれいに埋め戻せばいい。誰も見ていないさ。知りたいだろう? ユナがどんな未来を望んだのか。本当のことを知りたいだろう?)

 知るということは無駄がないということだ。考えて想像して悩む時間を他のために使ったほうがいい。Xmasプレゼントを例に考えればわかりやすい。「サンタさんに何をお願いしたの?」と探りをいれてくるではないか。

 ぼくとユナの幸福への近道をするためにチラ見するだけだ。どこが悪い? 闇がぼくの決心を固めた。

月明かりで照らされたユナの書いた紙を見て愕然とした。

――ユウジと別れて幸せになる――

 一瞬ぼくは日本語の読み方が間違ったのではないかとおもった。何度も読み返す。踏みつけられた空き缶のように、心臓が握りつぶされていく気分になった。

「――見たんだ」

 いきなりユナの声。

ぼくはふり向くことができなかった。部屋にいるはずのユナがぼくの背後にいる。それも見られたという最悪の状態で、だ。

「……ごめん」

 背中であやまる。

「見たのなら話が早いわ。ユウジと別れたい」

感情がこもっていない乾いたユナの声にぼくは返す言葉が見つからず、ただ棒きれのように立ち続けた。



「ユウジさぁん、飲んでますか」

 あれから三か月。

 キリリと張りつめた弦のごとく神経をピンと張って、いつものぼくを演じてきた。

 今日は会社の部の新年会。

 四月に入社したばかりの舌っ足らずが、赤い顔をしてビール瓶を傾ける。

「悪い、自分のペースで飲んでいるから――」

 言いかけたところを、先輩が割り込んできた。いつも人のやることに一言付け加えて先輩風をふかす、苦手な人だ。

「はい、はいはい! いーの。ユウジはこのあと彼女の所へ行くから飲みすぎるわけにはいかないんだぁ、なあっ。ブラブラなんだよなー」

「やぁっだあ。ラブラブですよ。わぁユウジさんの彼女さん幸せですね」

「そうなんだよ。すっごく細くてキレイな彼女だよな。あんなに細くて子供産めるのかぁ? そもそもユウジみたいな大きな体が乗っかったら壊れちゃい……」

 気がつけばぼくは先輩を殴っていた。何も知らないくせに出しゃばる口を潰してやりたい。そっと大切にしている部分に土足で踏み散らかしていく先輩という男を、許してはいけない。

殴られても懲りずに、切れた口端から品のない言葉をくり出す先輩に、 ぼくの体内のアルコール成分が拍車をかけた。

 体がフッと軽くなった気がした。ぼやけていく視界にユナの笑顔が浮かんだ。

 天井から下がる丸い和風のペンダント照明が、あの夜の月に重なっていく。

「――中秋の名月?」

 そうつぶやいたことだけが最後の記憶だった。



「うわ。生きとるわ」

 耳元での大声に目を開けると、キスせんばかりの近さに先輩の顔があった。あわてて顔を背けようとしたけれど思うように動けない。

 白い天井、白い壁、消毒の匂いで、ぼくは置かれている状況がわかってきた。

 先輩の背後から、ヌッと医師が顔を覗かせ口元をほころばせた。

「大丈夫だ。そう簡単に死ぬようにはできていない」

 事のてん末を知った。相手を病院送りにしたことはあっても自分が送られるのは初めてでヤキがまわったと感じた。ユナのことを軽々しくいわれてカッとなった。あんなにひどい別れ方をされたのに、まだ胸には灯りが燈っている。

 こいつのことよろしくお願いします、と医師に頭を下げる先輩の右腕が三角巾で覆われていた。先輩も怪我をしたのだ。それも利き腕を。それでいながらこうして見舞いに来てくれた。苦手だと思っていた先輩への気持ちがほぐれていく。

「……すみませんでした」

 小さな声でいってみた。先輩が破顔する。

「早く復帰してこいや。かまう相手がいなくて寂しいわ」

 初めて聞く先輩のお国訛りからは、飾らない温かさが伝わってきて心地いい。ぼくの胸の中に新しい灯りが燈った。

 先輩の後姿が廊下に消えると、医師がニヤリと笑った。

「まさか、きみが運ばれてくるとは思わなかったよ。あの夜ぼくは救急の当番でね。きみの姿を見た時にとうとうきたか、と身構えたら全然別件で、ただの脳震盪なんだもの。酒を飲んで喧嘩だなんてまだ若いねぇ」

 先ほど回診にきた医師、菅野が笑いをこらえながら消毒のコットンをあてる。

 偶然にも、十年近いつきあいの菅野のいる総合病院に運ばれていた。菅野とはユナ同様、長いつきあいになる。出会った時からだいぶ白髪が増えた。

 翌日にはすっかりよくなったが、菅野が念のためもう一晩泊まっていけというので、退院が延びた。寝ているのも飽きたのでリハビリと称して院内の散歩をすることにした。



 コーヒーを買いベンチに座った。中庭の芝生は積もった雪で綿を敷き詰めたようにまっ白だ。

隣のベンチにも同じようにコーヒーを手に雪を見ている女性がいた。長い髪を無造作に束ねて、疲れたのか、パックをいくつもぶら下げた点滴スタンドにもたれている。缶コーヒーを持ち続けるのが辛そうなくらい腕が細い。つい遠慮のない視線を向けてしまったぼくは、思わずベンチを蹴る勢いで立ちあがった。 「――ユナっ?!」

やっと、ゆっくりと顔がこちらを向く。

そげた頬、くぼんだ眼球、ツヤがなく萎んだ肌が奏でる顔は、ぼくでなければユナだと気づかないくらい変貌していた。

スレンダーすぎるくらいだったけれど、ユナはいつも元気で、風邪ひとつひかなかった。

 たった三か月の間にいったい何が? ぼくは相変わらず言葉で表現することが苦手で、バカみたいに立っていた。

「まさかこんな形で会うなんて……」

 はぁとため息をついたユナの声は、タイムカプセルを埋める前の柔らかい声だった。けれどその瞳は、再び勝気な光が宿るのは難しそうなくらい弱々しい。

「ユウジはどうして入院したの?」

 パジャマ姿のぼくを自分と同じ入院患者だと判断したのだろう。

「軽い脳震盪で。明日には退院するよ。それよりユナは……具合悪かったの?」

 ユナの体に刺さる何本もの透明な管に触れようとした時、パタパタと忙しい足音が近づいてきて、ユナを叱った。

「まだ勝手に出歩いてはいけないんです。すぐに車イスを持ってきますから動かないでいてくださいね」

 パタパタと去っていった足音はすぐに戻ってきた。

「ユウジ。お大事に」

 嫌な予感がした。じゃあね、と軽く傾げた顔の輪郭が淡くて、たまらなく不安になる。ぼくはとっさに看護師に申し出た。

「病室までぼくが車イスを押します」

 


看護師が出て行くと、ぼくは遠慮しなかった。

「ずいぶん殺風景だね、花ひとつない。新しい彼は花も飾ってくれないの?」

「あったわ、きれいなアレンジメントが。でも枯れたから捨てたのよ。きっと今日にでも新しいのを持ってきてくれるわ」

「ふうん、そうなのか。――なら、ついでに教えとかないと。ユナは百合やダリアのようにストンと芯がまっすぐで華やかな花が好きだと、ね」

「いいのよ、花なら何でも好きになったわ」

「じゃあ、元カレとして忠告しておかないと」

 スッとユナの顔がこわばる。ぼくを部屋から追い出すために、ナースコールを押されて看護師を呼ばれたらおしまいだ。慎重に言葉をえらんだ。

「約束は守ること。うっかり忘れて破るとご機嫌を直すのが大変だって。それと美人だけど気が強いから喧嘩になったらまず謝れ、と。お酒は好きだけど弱いから目がうるんできたらストップだ。それから……」

 黙って話を聞いていたユナの口元がほころんでいる。ぼくに小さな確信が芽生えた。

「今日来るといったね。どうせぼくも入院中でヒマだ。彼が来るまでここで待つよ」

「ユウジは喧嘩っ早いからだめよ。彼、とてもやさしくて気が弱いの」

「それならなおさら気の強い姫様の扱い方を伝えておかないと。キスをするときは両手で顔を包まれるのか好きだとか、ビキニラインの内側に大きなホクロがあって気にしているとか、ベッドでは――」

「やめて。やめて!」

「いやだ。やめない。どこが感じるところか、どんな甘い声で鳴くのか」

「お願い、やめて」

「――ぼくがまだどんなにユナのことが好きか」

「やめ…………」

 ユナは口をヘの字に曲げて目を閉じた。透明な雫がふくらみのない頬を伝う。

「いえよ! 本当は彼なんていないんだろ。あれからずっと一人だといえよ」

「そうよ!」

 痩せた拳が飛んできた。当たったのに痛みがないのが悲しい。

「ユウジはわたしのことを嫌いになるべきなの! 嫌いな女なら死んだって心は痛まないでしょ。あんな願いをみたらユウジに捨ててもらえる……」

「そんな」

「上手くだませたのに……。まさか入院先で会うなんて」

 手のひらで握りつぶしたメモ。見えない糸が浮かびあがってユナの策略が見えてきた。

「ユナはぼくがタイムカプセルを勝手に開けることを予想していたんだね」

「当然よ。何年つきあっているとおもうの? ユウジは優しいから私が死んだ後のことを考えると心配だった。もう隠せないからハッキリいう。――わたし難病なの。たぶん来年はもういない」

 一気に喋るとユナは咳き込んだ。喋るだけでも命を削っているのか。ぼくの胸が重くなる

「ありがとう、話してくれて。ぼくは嫌われてなかったんだね。ユナと会えなくてさみしかった――好きだよ」

 返事の代わりに笑顔をかえすユナ額にキスをした。やがて喋りつかれたのか小さな寝息をたて始めたユナの唇がかわいい。ぼくはそっと重ねて耳元で小さく囁いた。

「また、あの世で」



 売店を通りかかると、医師の菅野が昼食のおにぎりとカップ麺を買っていた。患者には栄養のウンチクをのたまうのに、医者としてその食生活はどうよといいたくなる。

 ぼくの姿を見つけると、菅野は手招きをした。

 廊下から見上げる空は相変わらず重い。やむことを忘れたかのように雪が降り続けている。

「本当に心配したんだよ、きみが救急に運ばれた時は。救急当番であることを忘れて、脳外科の知識がぼくの頭蓋骨に集結していくのを感じたよ」

「まだまだ世にはばかってますよ、ぼくは」

 茶化すぼくに菅野の目つきが真剣になる。

「いいかい? こんなに健康そのもののきみだけど、脳内に致死率確実な時限爆弾を抱えているんだ。忘れてはいけないよ」

 メスのような指先が、スッとぼくの頭を指した。

若い時の喧嘩。殴られた時にできた血栓がぼくの頭蓋骨の中にある。手術できない場所で様子見の状態がもう何年も続いている。医学の発達が早いか、血栓が破裂するのが早いか……。これはぼくと菅野だけの秘密だ。

 こんな頭蓋骨に爆弾を抱えた男に、一生幸せにしますなんてプロポーズできやしない。ぼくの死で、あの細い肩が震えるのを想像しただけで張り裂けそうになる。

けれどユナの一生は透けてみえるほど短いと知ったとき考えは変わった。

 あの世が本当にあるのなら、ぼくとユナは近いうちに会う。どちらかが先死ぬときには「さようなら」ではなくと「またね」がいい。

窓ガラスに顔をつける。外気で冷やされて氷のようだ。冷たさに肌がピリリとなる。こんな感触にぼくは興奮する。

この頭蓋骨の奥にぼくのタイムカプセルが埋まっている。真っ赤な時限爆弾のタイムカプセル――。

あの時、中秋の名月の下で、ユナに見られて握りつぶしたぼくの願いをつぶやいてみる。

――ユナと別れて幸せになる――

これは内緒のひとり言。