「夢みたいだよ。君のような美女と出会えて」

 ヨンはホテルを出ると周囲に人目がないことを確かめ、暗い中でポリィの両肩に、後ろから左右の腕を掛ける。

 ポリィは振り向いて微笑むと、彼を流し見て身をよじる。くっきりした大きな目をヨンの顔に向け、視線を絡ませた。

 バンコクの蒸し暑い夜気に包まれ、一度ホテルで乾いた二人の身体に、また汗がにじむ。

 ポリィとヨンは、しばし抱き合った。

 それからヨンは、ポリィを家まで送った。自慢のクルマを高級マンションの出入り口に横付けして、ポリィがクルマを降りる直前、もう一回口づけを交わす。

 ヨンはポリィと別れ、ラーチャダムリ通りに入ってからも、ついさっきまでの逢瀬を思い出して、ニヤニヤと笑い続けていた。

 スマホがメールの着信を知らせる。

 ヨンは緩んだ表情のまま、開封して内容を確認した。

 次の瞬間、彼は運転を大きく誤りそうになって、バンコク一の大通りにクルマを蛇行させ、危うく路肩に停めた。

 道路の両側に並ぶ大型ショッピングビルから、照明の光が溢れている。後続車が二台、三台とクラクションを鳴らして、ヨンのクルマの横を抜ける。歩道を行き交う人々のうち、何人かは音がした方に目を遣る。

 ヨンは端整だがのっぺりした顔を引きつらせて、スマホに送られた数枚の写真を、焦りながら見ていく。

 どれもポリィと彼の逢瀬を、鮮明に捉えていた。しかしポリィの顔がはっきり撮れている写真は、一枚も出てこない。

 ヨンはメールの本文を読み、声に出して毒づいた。

「あの女!」


 俺はクルマの助手席から、双眼鏡越しにヨンの反応を確かめ、声を立てないで笑った。

 ポリィとの浮気写真を見て、ヨンは狼狽してから頭を抱えていた。

 運転席のポリィが俺から双眼鏡を取り上げ、陥れた男の様子を見て、やはり笑う。

「また上手くいったわ。ホント、男ってバカ」

「俺も男なんだが」

「じゃあ同じね」

 笑い声を大きくしながら、ポリィはアクセルを踏んだ。

 すぐそばのヨンが気付かないまま、俺たちのクルマはラーチャダムリ通りを抜け、バンコクの中心街から高速道路に入った。

 ヨンはオフィスビルを所有し運用する会社で、重役をしている。役職は専務だった。

 もっとも婿養子のため、彼の地位は妻の七光りだ。オフィスビルの所有者も、妻とその血縁者だった。

 それなのにヨンは妻に隠れ、肩書と金に飽かせて愛人を何人も作り、好き放題してきた。

 結局は妻にバレてしまい、別居されて会社での立場も危うい中、離婚調停が始まろうとしている。

 ヨンは少しでも状況を良くしようと、仕事に励み、楽しみを自粛した。

 しかし妻はそんな夫に容赦がなく、慰謝料を搾れるだけ搾ろうと、俺たちを雇った。

 彼が憂さ晴らしに行くパブに、ポリィが勤め始めた。しっかりした経歴、はっきりした住所、何より清楚な美貌に、ヨンは二週間で転んだ。

 その三日後に一線を越えた事実を撮影されてしまい、後の祭りとなった。

 俺は撮影したヨンの浮気写真を、まず彼の妻に送り、受信確認のメールをもらってから、依頼通りヨン本人に送った。

 ハニートラップによる写真が、離婚調停に使えるかどうかは知らない。多分ヨンの妻は、それを弁護士に渡さないだろう。だがヨンを直接責め立て、心をへし折る材料には使う。それで十分だ。

「彼、奥さんの言いなりね」

「ああ、裁判がどうって話じゃない」

 とは言え夫妻の問題は、もう俺たちと関係ない。

 ヨンの妻が早々と報酬を振り込んでくれたのを確かめ、俺はその件を済ませた。

 ポリィがスピードを上げながら、甘え声で頼んでくる。

「ねぇ。これから貸金庫に行きたい。すぐに」

 俺は答えない。できれば付き合いたくない。

 しかしポリィは、あきらめないで続けた。

「お願い。私の誕生日が昨日だって、知ってるでしょ」

「だったら明日でもいいだろ」

「いや。もう待てない」

 俺は交換条件として、分け前を多くしてもらおうかと思い、さすがに切り出せなかった。

 渋々うなずいてやる。

 ポリィはきれいな顔いっぱい、こどものような笑みを溢れさせて、さらにスピードを上げた。クルマは夜の高速道路を、滑るように走る。

 三十分後、俺たちが着いたのは、ヤワラー通りの南端に近い路地裏、中華街の外れに建つ倉庫だった。常駐の管理人が二人いる。自動小銃を隠し持って。

 倉庫の見た目は地味で古ぼけている。だがその壁の裏は、要塞並みの建材だと言う。地下の容積は、地上の数倍ある。戒厳令下でも二十四時間営業。

 俺たちはバンコクの地元民割引を使い、そこにハニートラッパー相応の小さな金庫を借り、身を守るための品々を預けている。

 もっとも契約金を、全額払っているのはポリィだ。その代わり金庫の半分近くに、私物を入れている。どれも役に立つ品ではなかった。

 一年間無事に仕事を済ませ、誕生日が来るたびに、ポリィは自分への贈り物として、その私物を一つ取り出しては、処分する。

 彼女にとって小さな貸金庫は、タイムカプセルの変種だった。

 ポリィが男性だった日々の証拠を、一つ一つ消し去って、忘却していくための。


「だからって、それはないだろ」

 ポリィがトランクスを取り出して広げたのを見て、俺はうんざりした。

「いいじゃない。今年は大物」

「どういう基準だ? 去年はヒゲ剃りだった」

「そお? 忘れたわ」

 ポリィは美女だが、前は男性だった。心が女性なので、身体も手術で性転換している。

 タイ、特にバンコクには、そういう性転換者も、服装だけを女性化した「男の娘」も多い。他の国からも集まってきて、オフィスワークや店員や水商売と言った仕事を、当たり前にやっている。

 彼女たちをレディボーイと言う。

 ポリィは東南アジア系。でも国籍はアメリカ。性転換したのをきっかけに、レディボーイの聖地、バンコクにやって来た。男だったとき使った品を、幾つか旅行鞄に入れて。

 彼女はバンコクに落ち着いてすぐ、その品々を貸金庫に封印した。

 ポリィが女性として社会に溶け込んだ事実を、自他共に認めることができたら、金庫を開けて中身を処分する。その希望を、五年後に叶えようとした。

 しかし現実は厳しい。

 生まれてから二十数年、ポリィは男性だった。しかも小中高と男子校に通い、軍隊経験まであると言う。

 実際、成り行きで得た仕事は、俺と組んでのハニートラッパー。

 女を武器にしてはいるが、それによって情報を盗んだり、浮気をデッチ上げたりする。切った貼ったもある裏稼業だ。

 最初の半年ほどは、玄人にレディボーイとバレ、拳を振るって自己嫌悪に陥り、何度もくじけそうになった。

 それでポリィはめげない方法を考え、準備期間を取って、次の誕生日から実行した。

 一日を女性らしく過ごせたら、ハートマークをカレンダーに付ける。それが一年続いたら、誕生日に貸金庫のタイムカプセルを開け、男性だったときの証拠品を、一つ処分する。

 ハニートラッパーを始めた翌年から、ポリィは三年で三つの品を捨てることができた。

 順調に女性への道を歩んでいる。 

 さっきトランクスを広げた様子も、いたずらっぽさと恥じらいの混ざり合った表情を浮かべ、女性としか見えなかった。

 ポリィがトランクスをバッグにしまったのを認めて、俺は話し掛けた。

「次の依頼が来てる」


 俺たちが新たに狙うのは、親族で経営する中堅メーカーの、二代目社長だった。

 ヌーと言う名のその男は、仕事の才覚も性格も、キレていた。依頼者から受け取った写真の顔は、目が死んで、笑ったような口元をしている。

 俺とポリィは彼について話した。

「ヌーは独身。就任してから会社の売り上げと利益を、急激に伸ばしている」

「いいことね」

「営業方法がヤバいらしい。違法すれすれ。不要な敵も作っている。それで親族の経営陣は、ヌーから実権を取り上げ、飾りにしたいって訳」

「性格も危ないって?」

「酒癖、女癖、共に悪い。先月ガールズバーで酔ってケンカ。警察は会社が抑えたが、親族会議で、一ヶ月間の仮出家と決まった」

「あら。お坊さんの生活? 会社に勤めながら」

「ああ。酒も女も破戒だ。バレたら前科並みにきつい。世間の評価はガタ落ち」

「大変ね。タイの仏教社会」

 ポリィはヌーの出席したコンペで、偶然の出会いを演出した。彼女はヌーの好みを研究して、言動、化粧、服装と、全てをそれに合わせていた。

 妖艶な彼女をヌーは気に入り、すぐに付き合いが始まる。

 そのとき俺たちは、最初のきっかけ作りこそ難しいが、後は楽にいくと思っていた。

 しかしヌーは器用に立ち回って、写真を撮らせない。明らかに周囲を警戒している。

 ヌーの武勇伝から考え、親族たちの企みを察するのは、あり得ることだった。

「彼、手強いわね」

 ポリィが評した。

「あの男、自分のことを僕、私のことをポリィたん、て呼ぶの。甘えた口調で。けれど目付きは冷めてる。痩せているけど鍛えていて、ケンカと女の扱いには慣れた様子。夜の街のことは、意外に知らないわ」

「縄張りを決めてるんだろう。力の及ぶ範囲に」

 ポリィはうなずいた。俺は訊ねる。

「それで君のことを、疑っている気配は?」

「感じない」

「じゃあ、こっちから動く」

 早くしないと、仮出家が済んでしまう。

 ヌーは素行調査に気を付けている。それでもポリィとの密会を、止める様子はない。

 俺は強硬策を提案した。

 ポリィがヌーと出掛けた先で、写真の撮れる場所に彼を誘い込み、抱き合う。

「いやね。はしたないやり方。女らしくないわ」

 ポリィは文句を言ったが、他にいい方法も思い付けず、俺と一緒に隠し撮りの場所を探す。ホテル街の駐車場を、借り切ることができた。そこには廃車も置かれていた。

 三日後の深夜、その隅に停まったクルマの横で、ポリィがヌーに寄り添う。

 俺は廃車の間に隠れて、カメラを構え、ヌーの顔がはっきりするときを狙う。

 ところがヌーは、ポリィを押し離して俺の方を向くと、目を細めて笑いながら、左を指差してきた。

 バレている。

 俺は背筋に冷たい鉄棒を当てられたように感じて、隠れ場所からゆっくり立ち上がった。ヌーが示す場所に目を遣る。蒸し暑いのに鳥肌が立ち、冷や汗が流れる。

 若い男が駐車場に忍び込んで、陰に潜んでいた。俺に拳銃を向ける。小柄で痩せたその男は、いかにもチンピラと言う雰囲気と表情をしている。しかし銃の扱いは手慣れた様子だった。

 俺は拳銃で狙われ、ヌーの前に連れ出された。

「済まない」

 計画に失敗があったと思い、俺はポリィに謝る。だがヌーは否定して、軽く嘲笑った。

「違うよ。僕が見破ったのは、ポリィたん。彼がレディボーイってこと」

 ポリィが息を呑む。ヌーはにこやかに話した。

「素行調査は想定していた。そして謹慎中に出会ったのが、麗しのレディボーイ。女を自称している。怪しいと思うじゃない?」

「そんなことないわよ。私、女だもん」

「いやー。僕、分かっちゃうんだな。レディボーイ、好きだから。で、彼らは普通、自分が何者かを言う。そのプライドから」

 ポリィはまた息を呑み、合掌して詫びた。

「その通りね……ごめんなさい」

「まあ君だったらほとんどの相手は、だまされるはずだよ」

 彼女にべったり貼り付き、ヌーは慰める。口調を優しげに作っている。

 俺に拳銃を突き付ける男が、微苦笑を浮かべた。

 ヌーの恋愛対象が、女性とレディボーイ両方と言うのは、少しも分からなかった。言動からも、情報からも。しかし彼の守備範囲は、もっと広いのかもしれない。

 そして秘密には、まだ裏があった。

「ポリィたん、本当の恋人になってよ」

 ヌーは優しげな口調のまま願うと、クルマのトランクを開け、暗緑色のベルトを何本か取り出す。軍で捕虜拘束用に、使っているものだ。

 ポリィは表情を消して黙る。ヌーは視線を俺に向けた。

「そっちの彼も雇うよ。盗撮カメラマン、役に立つ」

 俺への危害を察し、ポリィはうなずいた。

「少しの間、苦しくしちゃうけど、いいよね? どうせ男なんだから、頑丈だし」

 ヌーはポリィの上半身を、撫で回しながら縛る。

「この程良くゴツいのが、たまらないなぁ。見た目じゃ分からないけど」

 ポリィは眉間に、縦皺を浮かべた。

 ヌーは気付かないで笑いながら、ベルトをきつく締める。

「独特の弾力。レディボーイって、どうあがいても男なのに、女でいようとする。それを思い知らせて泣かせちゃうのが……いや、もう……」

 ヌーはいかがわしい妄想に浸りながら、悦に入って喋った。

「ポリィたん、調教しちゃうけど、恐がらなくていいよ。他にもお仲間が……」

「ふざけるな!」

 ポリィは一喝しながら、右脚を蹴り上げた。狙いは俺に銃を突き付ける男。

 その額にポリィの飛ばしたパンプスが当たって、男はのけ反った。引き金から指を離している。

 俺はポリィが仕掛けた瞬間しゃがむと、反動を付け男に飛び掛かり、仰向けに倒した。

 その間にポリィはベルトから抜け出し、ヌーを当て落としている。彼女は俺に訊いた。

「証拠は?」

「取った。全部録音した」


 予定とは大きく違ったが、ヌーの件にはいい結果を出せた。

 俺はカメラだけではなく、ICレコーダーも準備して、身に付けておいた。

 それで記録したヌーの話は、戒律破りには十分すぎた。

 彼は社長に留まるが、親族の用意した家に軟禁され、金も使えない。

「まあ当然ね。手下は拳銃を所持」

「そっちの方がヤバい。明らかな犯罪だ」

 おかげでポリィと俺は、依頼主の親族から口止め料まで、上乗せしてもらえた。

 もっとも拳銃は本物だが、脅しのためにだけ使われ、弾倉は空だった。

 俺はポリィに訊ねる。

「弾なしって、分かっていた?」

「ええ。肩の位置と動きで」

 彼女はこともなげに答える。俺は息をついた。

 ポリィの前歴は知らない。だがバンコクでフリーの記者として、筋者を相手にしてきた俺より、はるかに修羅場をくぐっている。

「それにしても……食べすぎだろ」

「スィーツは別腹よ」

 ヌーの件が全て済んだあと、ポリィは貸金庫をまた開けたいと、俺を呼び出した。

 しかしすぐ中華街の倉庫へは向かわず、初めはケーキ店に入って、メニューを順番に注文している。どうやらヤケ食いらしい。

「どうしたんだ?」

「今年の誕生日は失敗」

「え?」

「この間の仕事。女らしくできなかった」

「そうだな」

 ヌーにレディーボーイと見破られて、暴力的に解決した。

「私、過去を巻き戻さないといけない。証拠品を貸金庫に戻すの」

「でも誕生日って、来年じゃないのか?」

「早い方がいいわ。自戒の念を込めて」

 俺は疑問を口に出せず、押し黙るしかない。

 タイムカプセルを毎年開けているのも変だが、今度は出した物を戻す……いいのか?

 まあ、ありだろう。ポリィのプライドのためだ。

 悔しそうな顔でケーキを食べる彼女を見て、俺は苦笑する。だがそのすぐあと、嫌なことに思い当たり、声を低めて訊いた。

「金庫に戻す物って……?」

「これよ」

 ポリィはバッグを開ける。やっぱりトランクスが入っていた。

「見せるなよ。レディのすることじゃない」

 ポリィは慌ててバッグを閉め、やっとケーキを食べる手を休めた。


(了)